学生DkK(書き直し第一稿)
カーテンのはためく音が帆船のようだった。
(風が)
放課後の図書室。ドアを開く音ともに風が吹き込んで、重量のある布を外へと押し出した。プリントが飛ばないように、こんこんは手を伸ばす。貸し出しカウンターの内側で、風の出所を探して入り口を振り返ると、細身の長身シルエット。相手はこちらの姿を見つけて、わずかにいやな顔をした。
先に口を開いたのは、ドアを開けたでるたの方だった。
「はやいですね先輩」
「今来たところですよ、先輩」
こんこんは眼鏡を戻しながらぼそりと答える。二人は同学年ではなかった。学年としてはでるたの方が一つ上だ。しかし、今年図書委員として入ったばかりのでるたは、図書委員二年目のこんこんを先輩と呼んでいる。
(きっと、嫌味だ)
と、こんこんは思ってやまない。
こんこんは今日配架予定の新刊本にルックスを貼り終えて、空気が入らないように定規をあてる。その本の色と形を、でるたは目に留めて。
「あ」
足早に近寄ってくると、指先をつきつけた。
「それ、貸ります」
「そうですか」
こんこんは飛びそうになったプリント束から一枚抜き出して、シャープペンと一緒に置いた。
「予約をどうぞ」
「え、なんで」
でるたが眉をひそめた。なぜなら、とこんこんは言う。
「今からぼくが借りるから」
「だから。なんで?」
「読みたいからですけど」
「僕も借りたいんだけど?」
「予約をどうぞ? 今なら、二番ですよ」
しかも、とこんこんは淡々と告げる。
「明日には返します」
イラッとでるたが顔を歪めた。カウンターに両手をつけて、
「職権乱用なんじゃないですかね、こんこん先輩」
「そんなことありませんよでるた先輩。先に来たのはぼくです」
教室は、自分の方がずっと近いけれど。ということはあえて口にはしなかった。
「こんこんさん、よく考えてみて下さい」
ばらばらばら、と傍らのファイルを開いて、でるたはあるリストのページを開いた。
「あなたの借りている本は、こんなにある」
でるたもこんこんも図書委員だ。この学校では、それぞれの委員会の雑務も重いが、その分利権もある。長期休暇でもない限り、通常の図書の貸し出し上限は一人五冊だが、図書委員はリストに書き込めばそれ以上を借りることが出来た。もちろん、二週間以上の延滞は出来ないが、予約者がいなければリストの日付を書き直すだけだ。
でるたが図書委員に入った時、こんこんはすでに他の図書委員から「サウザンドマスター」と呼ばれるほどの読書量だった。
「そうですね」
眠そうにまぶたを半ば伏せて、年に千冊を読む男・こんこんはもう一枚ファイルのページをめくった。
「先輩の借りている本は、こんなにあります」
そこには、こんこんと負けず劣らず、ずらりと並んだ書名と日付。でるたは年間六百冊の読書量に加えて、詳細な感想も記すたちだった。
二人はどちらも、互いに対して、思っている。
(どうかしてる)
似たもの同士は惹かれ合わないというのがこの世界の不文律だ。このまま行っても平行線だった。こんこんはため息をつくと、拳を軽くあげた。
ふっとでるたも笑い、自分のこぶしを出す。
「じゃん、」
「けん、」
「……ぽんっ」
でるたが出したのはグーだった。そしてこんこんが出したのもグーだった。けれど勝敗はその一度でついた。
軽い声で、最後に合図して、やわらかな手の平を開いて出した人がいた。
「あ、勝ったー」
えへへ、と笑う。現れたのは一年生の図書委員だった。
「コモリ、さん」
でるたが大きく目を見開く。にこにこと笑う、コモリは首を傾げて、「なにしてるの?」と二人の先輩に尋ねた。
でるたは深くため息をついて。こんこんは、持っていた新刊を、粛々とコモリに渡した。
「コモリさんなら仕方ないな」
「仕方ないですね」
渡された本を見て、コモリは顔を輝かせた。
「借りていいの、これ! わーい、読みたかったんだー!」
けれどそこではたと気づき、コモリは長身のでるたを見上げる。
「で、でも、きっと一週間以上かかっちゃうよ……?」
でるたは爽やかに笑って言う。
「明日の朝に返して下さい」
その言葉にコモリは「き、きち……!」となにかを言いかけたが、慌てて本で口元を隠した。
剣呑に笑う、でるたと怯えるコモリを、こんこんは笑いながら見ている。
静かな図書館。本の感触。慣れた気配。それでも。
(どうかしている)
そう思いながら。
でるたが図書委員に入ったのは、本当に成り行きのことだ。「仕事をするより読書をしていたい」というでるたは、比較的仕事量の多い図書委員には見向きもしなかった。
本を借りるのも事務的な作業。図書委員の顔など気にしたこともないし、そんなことよりも読みたかった本に抜けがないかに心を配る。
食事をしている時も本を片手に読んでいるものだから、その様子にクラスメイト達は呆れ、引き、尊敬し、いつしかそんなものだと思うようになった。
読む本を忘れた時など、自分の名前で本を借りてきてやろうかと言ってくれるほどだ。それには及ばないから丁重にお断りして、感想カードでも書いているのが常だけれど。
放課後、いつものように本を選定していたでるたは、偶然聞こえた会話に、手を止めた。(でるたの場合はどれを借りるかではなく、どれから借りるか、である)
「こんこんってさー」
図書室なのに大きい声だなと思ったのが、最初。
「本当すごいよな。毎日毎日。図書委員っつったって、俺絶対こんな読めねーよ。頭どうかなってんじゃねえの? それともほんとは眺めてるだけで読んでねえの? ほんとに読んでるならすごいよ」
聞こえてきた言葉に、薄くため息をついた。ありきたりだと、思ったのだった。
他人はいつも同じようなことを言う。そんな台詞が出てくる時点で、大して仲はよくないんだろうと、勝手な判断をした、その時だった。
「冊数じゃないですよ」
ささやかな声が聞こえた。図書室に似合いの、低く、静かな声だった。
「冊数を読めば偉いってものじゃないです。物語は」
知らず、手を、止めていた。
片手に本を積み上げ、もう片手にも本を持ったまま、しみじみと、今聞いた言葉の響きを噛みしめていた、その時だった。
「ふーん。でもさあ。こんこんって年に何冊くらい読むの?」
その質問に、耳をそばだてたのは、別に、下世話ではないと、思いたい。
百? 二百? 三百を超えれば、日に一冊の計算だ。十分な読書量と言ってもいいだろう。
「……数えたことなんて、ありませんが……」
こんこんと呼ばれたその声は、躊躇いがちに、一層声をひそめて、ぼそぼそと言った。
「今年の貸し出し記録は、そろそろ千、ですかね……」
音を立てて、でるたの手から本の束が崩れて落ちる。何冊かは足にも直撃した。
(しま……ってええええ!?)
最後に新刊のハードカバーが、足の甲に落ちて、思わずでるたはしゃがみこむ。
(せん、さつ……!?)
痛みと、それから痛み以外の、なにかの感情と。呆然としていたら、誰かの、気配。
「……あの……大丈夫、ですか?」
顔を上げる。そこに見つける。眼鏡の、姿。
季節は冬。スチームの音がしていた、三学期の終わり。
でるたが図書委員会に入る、丁度一ヶ月前の話だった。
「なんで図書委員に入ったのかって?」
なりゆきだよ、とでるたは言う。
「どうせ毎日図書室には行くんだし。それから、なにより、貸し出し冊数に制限がないからな」
一年生のコモリさんも可愛いし。
なりゆきだよ、とでるたは言うので。周りも、本人でさえ、そう思っているようだった。
こんこんがでるたのことを知ったのは、でるたよりも前に遡る。
この高校では、本をかりると任意で感想カードを提出することが出来る。それらはひとつづりにされ、卒業の時点で本人に戻される。
基本的に外に出すものではない。自由に見ることが出来るのは、綴る本人と、棚の場所を知っている図書委員くらいのものだ。こんこんも、あえて人の感想を漁るような真似はしたことがなかった。その存在を見たのは、意図的なものではない。
こんこんが図書委員になってすぐのこと。
(なんだ?)
クラスごとに分けられた棚。その棚が、一つだけ、閉まらなくなっていた。それを見つけて、首を傾げて引き出しを開ける。
なにかが引っかかっていたのかと思うが、開けてみてすぐにわかった。
一人分が、いやに分厚くなって、入り切らなくなっていたのだ。
(誰だこれ)
と思うが、二年生、という学年を見て、図書委員になって日が浅いこんこんにも、心当たりがあった。
(あの、背の高い……)
毎日毎日、本を返しては借りていく、二年の先輩のものではないだろうか。一年と少しで、これだけの本の感想を書いていったというのか。
一枚、また一枚と、感想カードをめくっていく。
(ぼくには出来ないことだ)
読書量には自信があった。冊数だけなら、負けないのではないかとさえ思えた。それでも、これほど誠意をもって、本に向き合っているだろうか。
それは、相手への羨望だったのか、己への落胆だったのか、それとも、もっと別の、未来への諦観だったのか。
(それでも、ぼくは)
立ち尽くしながら、こんこんは思う。
(ひとつでも多くの、物語を)
なんのために?
わからないけれど。本を読むのだと、ただ、それだけをこんこんは思った。
「初めて図書委員会に入りました。でるたです」
本を落としてうずくまっているところを見た時も驚いたけれど、こんこんが二年になって、彼が図書委員に入ってきた時にはもっと驚いた。
隣に座る、でるたに、こんこんは躊躇いがちに、静かな声で言った。
「…………よろしくお願いします。先輩」
するとでるたは、にこやかに笑んで言った。
「やだなぁ。学年は違いますけど、こんこんさんの方が図書委員では先輩じゃないですか」
そして顔を寄せて。耳元に囁く。
「サウザンドマスター、なんでしょう? 先輩」
…………正直な、話、イラッとした。
「でるた先輩」
「なんですか、こんこん先輩」
「仕事してくださいよ」
「僕この本を読むので忙しいので。こんこん先輩こそ、仕事して下さいよ」
「今ぼくはいいところなんで」
二人とも、本から顔を上げることはない。
テスト後の金曜放課後。図書館の人はまばらだ。利用客がいなくても、図書当番の仕事はあったりするのだけれど。
それ以上に、本があるのだから、仕方ない。
「ところでこんこん先輩」
「なんですかでるた先輩」
「◎◎◎◎は読んだことがありますか」
でるたが上げたのは、もうすぐ数年ぶりの最新刊が出る、とあるミステリ作家の名前だった。
こんこんはかすかに嫌そうな顔をして。
「…………まだです」
「ナ・ナンダッテー」
「なんですか! だってあのシリーズ、二十冊近くあるじゃないですか」
「泣くなこんこん負けるなこんこん、全盛期のこんこんならポケットに入る量だ」
「はいらねーよ!」
思わず顔をあげてしまったので、軍配はでるたにあがった。
本から顔を上げない、横顔が、にやりと笑う。
こいつ……と思ったけれど、こんこんは言わなかった。相手は一応、先輩であったから。
「ところで、でるた先輩」
「なんですか、こんこん先輩」
「ぼく先日、■■■■先生のサイン会に行ってきたんですけどね」
「また遠征か」
「今回は近場です」
「また雪か」
「降ってないです」
「自慢だったら、僕は特にサインに興味ないから」
あれば欲しいけど、という言葉は呑み込んで。
「そうですか」
「なんだよ」
「実はその時に配られた小冊子に短編が」
がばっとでるたが顔をあげる。
「コピー!!」
ふ、とこんこんさんが笑った。
その時だった。
「……すみません」
女生徒が本をカウンターに本を出してきたので、でるたが慌てて、本を閉じる。
読書カードと返却図書。それから。
「あの」
躊躇いがちに、口を開いた。
「ちょっと、いいですか」
言われたでるたが不思議そうな顔で、自分を指さす。こくんと頷く女生徒に、「いいよ」とこんこんは顔を上げていた。
「ここは、大丈夫ですから。どうぞ」
「……あ、そう?」
でるたが立ち上がり。図書室の外に消えていく。残されたこんこんは、返却図書を戻しながら、感想カードを見る。名前まではチェックしなかったけれど、感想カードに書いてあった、落書きのような、黒い兎。それがとても可愛かったから。
「…………」
こんこんは、ため息をついて、読みかけの本に、顔を戻す。
五分だったのか、十分だったのか。なかなか進まないページ。
やがてなにごともなかったかのように、カウンターはでるたが戻ってくる。
「…………」
「…………」
本を開き、また読み出して。沈黙は、長くは続かなかった。他意はないけれど。決して、ないけれど。こんこんが、言う。
「可愛い子でしたね」
「コモリさんの方が可愛い」
その答えに、ず、っとこんこんの肩がずれる。
「先輩……」
「なに?」
「……いいえ」
言葉とともに吐く、ため息はさきほどよりも、軽いような気がした。
(どうかしてるな)
こんこんは思う。本から顔を上げずに。それから、わずかに、諦めたように微笑んで、言った。
「コモリさん、可愛いですよね」
言いながら、もう一度思う。
(……でも、どうしようもないな)
その横顔を、でるたはずっと、眺めている。
人もまばらな図書室。彼らに残された時間は決して、長くはない。
いつか遠くない未来に、二人の時間は終わりを告げるのだろう。けれど、それでも二人は歩みを止めない。
二人の時間は、読書に似ている。
読み終わることが怖ろしいからといって、彼らはその手を、決して止めることはないのだ。
*****
二年生のこんこん先輩と三年生のでるた先輩?
うん、知ってるよ。同じ図書委員だもん。え、怖い? でるた先輩のこと? うーん、怖いかな。どうかなあ。ああそうだね。ちょっと、怖いところもあるかも。そうそう、きち……ってそれ、本人に聞かれたら、大変だから!
僕? 僕は可愛がってもらってるから怖くないよー。時々ちょっとね、意地悪だけど。あれがでるた先輩の親愛表現なんじゃないかな。
こんこん先輩は、静かだねー。委員会の集まりでも、いつも隅っこの方で、「ぼくはいいですから」って話を聞いてるよ。でも、別に喋りにくいってわけじゃないんだよ。うん。でるた先輩には、結構アグレッシブに行くよ。あの二人、なんだかんだいって、仲いいんだ。
僕は二人とも尊敬してるよ。なんてったって、年に千冊読む先輩と、年に六百冊の感想を書く先輩だからね! でるた先輩が来てから感想も表に出してもらったりして、図書の貸し出し数だってうなぎのぼりだよ。
え? でるた先輩が、ぼくのこと好きなんじゃないかって?
あはは。面白いこと言うね。そうかも。嫌われてないかもって思うよ。でも、それを言ったら、こんこん先輩からだって嫌われてないと思うよ。
うん、僕は二人とも好きだしね。
でも、でるた先輩が僕のことを好き、っていうのは、なんだかちょっと納得いかないかなー。それは、こんこん先輩もね。
そんな風に思うのはきっと、君が僕らのことをあまり知らないからじゃないかって思うんだ。でるた先輩も、こんこん先輩もね。見てたらすぐにわかるもの。いや〜な顔をしても、一番楽しそうなのは、誰と話している時なのかってね!
えーわからない? 仕方ないなぁ。
それじゃあ、図書室においで。僕らはいつでも、待っているよ!